レジリエンスダイアローグ:この惑星に生きる作法 第1回 :2017年12月10(日)開催

「いのちを呼びさますもの」

ゲスト:稲葉俊郎  進行:佐伯剛

 

 

●稲葉 

東大病院の循環器内科の稲葉と申します。ふだんは医者をしておりまして、直径2ミリから3ミリの心臓の血管を0.1ミリのワイヤーで治療するのが本職です。本当は医療の専門職の中でも人間全体に向き合いたい、という思いが強かったのですが、やはり何かしらのとっかかりが必要なので、とりあえず心臓を専門にしました。職人的な匠の世界にも憧れがあって、どんどんと数ミリというミクロの領域に行ってしまっているのが専門職の現状です。ただ、基本的には人間全体を扱いたいんです。そもそも、人が元気になるとか、人が希望を持って生きるとは、どういうことなのか。そういう観点で医療を捉えてみると、西洋医学ではほとんど答えを出せてないのではないかと、現場感覚では感じています。

例えば、なぜ音楽を聞くのか、なぜわざわざお金を払って絵を見に行くのか、きっとそこにはその人にとっての何か意味があるからだと思うんです。ですから、僕は芸術や文化は広い意味で医療的な行為なのではないかとも思うのです。人間が生きていく、それだけで何かが徐々に失われていくとしたら、人間やいのちの全体性を取り戻すために芸術があるのではないでしょうか。それは医療でも同じです。芸術や文化の中に医療的な働きを持つものを発見していきたいというのが、僕の目下の活動テーマです。

 

最近、「レジリエンス」という言葉が、精神医学をはじめいろんなところで出てきています。レジリエンスにはいろんな解釈があると思いますが、僕は「生きる力」という根本的なことが見直されてきているのではないかと思うのです。たとえば、戦後、日本人は何もない焼け野原でがむしゃらに頑張った。そういうときは否応なしに生きる力が呼びさまされるものです。ところがいろいろなものが物質レベルで満たされた現代では、何に向かって生きていけばいいのかがよくわからなくなって、生きる力がうまく引き出せていないのではないのでしょうか。生きている以上、そこには生きる力があるはずなのです。ただ、そのいきる力をうまくくみ上げてくることができない状況が起きている。医療の大事な役割は、病気になった人であっても、人が本来持っている生きる力を引き出せるようにしていくことだと僕は思っています。

昨日は田口ランディさんが奔走されて実現した「核と鎮魂 市民会議 第1回目の対話」に参加するために京都を訪れました。医療に携わる者として思うのは、この未曾有の事故に対して、やはり鎮魂が、具体的には儀式が大事なのではないかということです。儀式は頭で行うものではなくて全身で関与するものです。今の医療は情報や知識に偏りすぎていて、体の全体で感じることが見落とされやすい。だから、頭の情報だけではなく、全身の細胞で感じるような体験、具体的には鎮魂の儀式が必要なのではないかという提案をしました。そうしないと、わたしたちは先に進めない。

医療の現場では常に生と死の関係性をこそ見つめています。ひとりひとりのからだの中でも小さな死と生が共存しあっていて、その関係性のなかでこそ生命は営まれている。また、ひとりひとりの人間もいずれ必ず死にますが、必ず何かしらが次の世代へと受け渡されていく。今私たちが存在している世界は全部亡くなった方から手渡されたもので、これを僕らがちゃんと受け取って、意識的に次にバトンを渡していくことが必要で、それが本当に「死を受け取る」ということだと僕は思っているのです。

ただ、死というのは非常に受け入れがたい、つらい体験でもあると思うのです。肉親の死や親しい方の死は受け入れがたい。人類が誕生して、死という受け入れがたいものに遭ったときに、何かやむにやまれぬ衝動が起き、それがある種の文明や文化を生んだのではないか。墓やモニュメントは、つくらざるを得ない衝動から生まれていて、その中で埋葬や葬儀という儀礼も発生したのではないでしょうか。人間が死という受け入れられないことを心に受け入れていくプロセスの中で、創造行為としての文明や文化が、人類の中で最初に生まれてきたきっかけだったのではないかと思うのです。

実際、旧石器時代後期ぐらいにはすでに穴を掘ったり石を立てたりする単純な墓が作られ、紀元前1万年以降の新石器時代からは、明らかに墓とわかる造形物ができたと言われています。世界各地にあるドルメンという支石墓も、神様が宿るような巨石をシンボルとして置いたと言われています。そういうモニュメントは、一見すると非合理的なものに思えるかもしれないけれども、やむにやまれぬ衝動の中で、外に形を造形していくことで、心の中に体験をおさめる意味で生まれてきたものだと思うのです。心の自然という観点から見ると、ある種の合理性や必然性があるはずだと思います。

人間の心が千々に乱れたときに、儀式をしたり、モニュメントや墓をつくったりすることで外的な現実と心的な現実とが呼応するようにすることで心をある形におさめていく。死を受け入れ、乗り越え、先に進んで生きていく。そういう形で人間は今まで命をつないできたのではないかと思います。

墓は、それが死者を悼んでいるものだというある種の共通認識があるからこそ、墓だとわかります。つまりシンボルです。カッシーラーが「人間は象徴を操ることによって初めて動物ではなくて人間になった」と言っていますが、シンボルの語源は、異なるものを一緒にする、異なるものに共通性を見出すということです。言葉もシンボルであり、芸術、科学、宗教など、人間がコミュニケーションしたり交感したりするものは、ある共通了解をもっているからこそできるシンボル活動だと言えるのではないかと思います。

シンボル活動は抽象的な思考によるものです。抽象的な思考が人間の中に湧き起こったのは、やはり死というものを受け入れるときではなかったでしょうか。鶏が先か卵が先かみたいな話ですが、死というものを受け入れるというときに、抽象的な思考としてのシンボル能力が活性化され、それが長い年月を経て、儀式や埋葬という営みになっていったのではないかと思うのです。

なぜそんなふうに思うかというと、僕も病院や在宅医療で患者さんの死を看取るのですが、「他者の死」というのは極めて具体的なのです。今まで生きていた人が死体になって、全く何も反応しなくなり、それを荼毘(だび)に伏す。ところが、「自分の死」というものは極めて抽象的です。自分の死は永遠に体験できないと僕は思っています。だから不安という感情と自分の死とが連結しやすい。だから死に不安を感じる。眠るときに眠った瞬間を記憶できないのと同じで、自分の死の瞬間を主観的に体験することは誰にもできない。ですから、“自分の死”という抽象的な現象と”他者の死”という具体的な現象を”死”というキーワードで結合させるために人間の抽象化能力が高まり、それがシンボル活動や墓や埋葬や儀礼などの文化や文明へとつながっていったのではないかと思います。

 

●佐伯 以前は、人は必ず自分の家で亡くなっていて、小さい子どもも、身近な人が目の前で死んでいく、季節によってはちょっとニオイもするというような環境で育ったわけですね。その後、多くの方が病院で亡くなるのがあたりまえという状況が長く続いて、最近はまた看取りの最期の瞬間を病院ではなく在宅で迎えるという流れになってきています。患者さんの最期のあり方が変わることで、医療現場での死に対する考え方、感じ方は変わりつつあるのですか。

 

●稲葉 「病院から在宅へ」の流れは制度優位で進んでいるので、病院医療と在宅医療が完全に二極化してしまって、まだうまくリンクしていないと思うのです。ただ、お年寄りが人生の最後をなんとか自宅で過ごしたい、というとき、周囲の人間はプロの医療者ではなくても、やはり何かしようと思うのですね。たとえば苦しそうにしていれば背中をさすってあげるとか、退屈していたら話しかけるとか、部屋に花でも飾るとか、必要に応じて工夫していく。そういうことが一番大事なのではないかと思っています。つまり、からだの問題を完全に病院に預けてしまって、お金を払うから等価交換で十分な医療を提供してくださいという経済原則や交換原則で動くのではなく、なんとか自分でできることをやってみようというシンプルな感性が大事なのではないかと思うんです。僕は、そういう感性こそが医療の本来の土台にあって、それでも無理な高度に専門的なことは病院という特殊な医療施設で行われていく、という当たり前の状況になっていけばいいと思っているのです。今はそこがまだうまくつながっていないけれども、将来的には恐らく自宅と病院との関係性がもっとうまくつながるのではないかと思っています。

 

●佐伯 医療の話をするときに、どうやって治療するかよりも、死生観が軸にないと、特にこれからの超高齢化の時代、現実的な問題として医療費の問題や、介護費用の問題といった制度に対してのしわ寄せが出てきますよね。

 

●稲葉 どのように死にたいかということと、どのように生きたいかということは、本当に表裏一体です。死ぬときは、いろんなものが削ぎ落とされて、本当に自分に大切なものは何かを迫られるわけですよね。だから、死生観を育むということは、結局、自分にとって生きるとは何か、自分の人生で本当に大切なものは何かということを、外から入ってくる情報ではなくて、自分の内側から湧き起こっていくものと向き合うことから発見して育んでいくことだなと思います。

 

●佐伯 自分の死は抽象的で、他人の死は具体的という話がありましたが、死を自分事として捉えていくときに、シンボルをつくるという行為にはどういう意味があったと考えていますか。

 

●稲葉 死を心の中におさめていく、受け入れていくプロセスは、目に見えないし、非常に抽象的だと思うのですけれども、ものをつくるという行為の中に、その肩がわりをするような効果があるのかなと思います。死者を思いながらものをつくる。死者を思いながら花を生ける。そんなことをするだけでも、心の中がなんとなく落ち着いていく。そういう原初的な意味があったのではないかと思います。

 

●佐伯 古代ではドルメンなどの形あるものをつくったわけですが、お墓参りや、お盆の期間に六道珍皇寺で先祖の迎え鐘をつくとかいう儀式も、やはり、死への恐怖や不安をなんらかの装置によって緩和しているのでしょうか。

 

●稲葉 そうですね。おそらく、悲しみをずっと引きずって生きていくわけにはいかないけれどもなかなかふっきれないというときに、そういうことをやると心が落ち着いていくということを誰かが発見して、それをみんなに伝えていった。そしてみんなが実感した。そんなふうにシンプルなことではないかと思います。悲しみに区切りをつけ、また明日から元気に生きていくための句読点のようなものとして、お墓や儀式が必要とされたのだろうと。

でも、現代のように、内側から湧き起こってくる内的な必然性が忘れ去られて、形だけが重視されると、何のためにやっているのか分からなくなったのだとも思います。今は悪い意味での儀式化になってしまっている。だからちょうど原点に戻るときなのかなと思います。

 

●佐伯 僕は、介護保険法が始まって以来、介護現場の様々な場面を取材してきましたが、地域包括ケアサービスは、病院から在宅に帰って、最後の弱り切ったところをみんなで支えていこうというものです。家族だけだとその力がないので、ヘルパー、訪問看護師、訪問医療のお医者さんたちが、家族とコミュニケーションをとりながら、最期の瞬間をみんなでケアしていく。日本の介護保険法は世界的に見ても非常によくできている仕組みではあるのですが、地域包括ケアサービスの中には例えば宗教関係の人が入っていない。つまり、心というか魂のケアをするエキスパートが絡んでいないのです。終末医療は家族にとっても死という局面での1つのレジリエンスですが、そういう極限状況の中の心のケアについてはどう考えますか?

 

●稲葉 今のシステムだと、心のケアは精神科医がやるということになっていて、睡眠剤や精神安定剤をどう処方するか、という矮小なものになってしまっているのです。けれども心のケアというのは本当に人間の魂に関わる全体的な総合的な力が試されるもので、医療という枠にも全くおさまらないものだと思います。宗教者だけでも解決しないと思います。それこそ、音楽とか美術とか、芸術も含めた文化全体の力を総動員しないとできないと思います。

それから、「場」の問題を僕はすごく感じます。例えば、患者さんの家に行くと、ごみ屋敷みたいなところがあります。絶対に換気したくない、絶対に窓をあけてほしくないいう家も多くある。無理やりするわけにはいかないんですが、場の状態を整えるだけでいい方向に動き出すだろうな、ということも多いのです。人よりも、人を包む場全体を整えることも必要で、もちろんその方法のひとつには宗教もあると思います。

だから、同じような思いを持っている人たちがもう少し集まることができる仕組みが必要なのかなと。たぶん、宗教の人を入れましょうと言ったら、仏教なのか神道なのかみたいな争いがあって、仏教ならどの宗派にするのかと、そういう些末な争いが起きてしまうのではないかと思うのです。

 

●佐伯 僕が宗教者と言ったのは1つの例えです。実際に心のケアをされている宗教者もいますし、宗派争いをしている方もいますが、別に宗教関係者が心のケアをする必要はないのです。例えば稲葉さんが積極的に取り組んでいるアートや芸能からの働きかけでもいい。終末期における家族及び死に向かいつつある人たちの心の問題は、医療関係者とか宗教関係者という枠組みでは解決できない。医療関係者においても、単に手術すればいいわけでなく、そうしたことへの配慮が必要ですよね。

 

●稲葉 そうですね。だからこそ、例えば絵を一枚掛けるとか、お花を一輪生けるとか、少しいい匂いがするとか、それだけでも何か変わっていくのではないかと思います。先ほどもお話ししましたけれども、芸術も医療も失われた人間の全体性を取り戻す営みという意味では一緒ではないかと。

そもそも人間のからだがどんどん複雑になっていってしまったことも、全体性が失われる原因のひとつなのです。人間のからだというのは、頭から筋肉から骨から神経から内臓から、ありとあらゆる臓器やパーツでできていて、その複雑な全体性を十分に使って生きるのはなかなか難しい。例えばパソコン生活だと指と脳みそ、特に視覚しか使わないとか、人間の全身のなかのほんの一部しか使わなくなっていって、それがバランスを崩す原因になっているのかなと思います。

からだがこれだけ複雑になってくると、それを運用するために心も複雑にならざるを得なくなって、そのために意識と無意識の役割分担が行われていったのだと僕は思うのですね。例えば歩くとか、どこかに行くのは意識して行うわけですけれども、1秒間に1回心臓が鼓動を打つといった内臓の運営は意識できない。それで意識と無意識に役割分担をしていくことになった。そのときに、意識と無意識の溝が深くなったり、意識が極端に強くなって命の根源を運営している無意識の世界への配慮がおろそかになってしまうと、どうしてもバランスが崩れてしまい、病気や不調が生じるのだと。

ですから、意識と無意識のコミュニケーションを回復させるためには西洋医療だけでは限界があると僕は思っていて、だから、人間は芸術や文化を生み出したのだと思います。伝統芸能も、現代アートも本来そういうものだと。

 

●佐伯 今のお話を補足させていただくと、最新の脳科学では小脳の役割が見直されているそうです。小脳は大脳の10分の1の重量しかないのに、表面積は2倍、ニューロンの数も大脳の倍以上あるということがわかってきた。つまり、小脳という非常に小さい領域に記憶されている情報量は、大脳よりはるかに多い。それはなぜかというと、小脳のほうが皺(しわ)が多いからだと。さっき話が出たような、寝ているときも心臓を動かす、呼吸をするといった活動、つまり、生きる、死ぬというぎりぎりの領域を小脳が扱っているわけです。寝ているときに心臓が止まったりすると困りますから、意識せずに勝手にやってくれるような領域、呼吸するとか心臓を動かすとか、そういう部分は全部小脳が司っている。

要するに、これまで小脳は動物脳で、かなり低レベルの領域だと思われていたのが、そうではなく非常に高度なことをやっている。たとえば、匠の人たちが仕事をしているときは、大脳ではなく小脳の記憶領域を使っていると考えられています。からだで覚えている仕事はそうでしょうね。例えば、ロケットの先端部分のデリケートな曲線は、コンピューターやロボットではつくれず、いわゆる職人さんが、叩いた音だけで0.0何ミリの厚さの違いを測りながらつくる。小脳の領域は無意識の領域でもあるので、「なぜそういうことができるのですか」と聞いても、「理由なんかわからない」としか言えないわけですね。

もうひとつ、小脳と大脳の領域の記憶の仕方には違いがあります。大脳は応用脳らしく、例えば何か経験をしたら、とにかく大脳のボックスの中にポンと入れておいて、次に新たな経験をしたときに「何か似たような経験があったな」とそこから記憶を取り出して作業ができる。小脳はそういう器用なことができない。例えば、心臓を動かす部分はここ、呼吸するのはここみたいな形で記憶している。生命に関わる領域なので、0.0001%でも違いがあったら死んでしまう可能性があるので、応用するわけにはいかないんですね。

だから、職人さんに「似たようなものをお願いします」と言っても、「できない」と言われることが多いのです。私たちから見たら同じようなものでも、職人さんにとっては、別のものなんですね。そういう厳密な、これとこれは違うというような感性的な感覚は小脳が持っているらしいのです。僕らがわりと単純に口にする「無意識」という領域は、小脳が取り扱っている領域ということですね。

 

●稲葉 特に身体的な無意識の領域ですね。身体的に反復動作をしたときに、からだの感覚として無意識化されていく部分は、小脳が担っている。たとえばコンピューターと指だけで買い物をすませたりして身体性が失われていくと、おそらく小脳はあまり使わなくなってしまうのではないでしょうか。鳥などは小脳がすごく発達していて、そのことが飛ぶ能力を獲得したこととも関係していると言われています。

 

●佐伯 反復動作以外でも、古代からずっと連綿と続いている時間軸の中で、僕らが今ここに存在していると考えたときに、生まれてすぐに心臓がちゃんと動いて、呼吸ができるのは、学習によって手に入れた力ではなく、本能であり、たぶん小脳が司っている。だから、僕らは生まれる以前から身体的なことを受け継いでいる。ひょっとしたら伝統的知恵も、意識できないけども、自分たちの中に流れ込んできている、そういうものも一緒に、心臓を動かしたり呼吸することと一緒に記憶化されている。だから、赤ちゃんは、誰から教えられたわけでもないのに、勝手にハイハイ歩きを始めたりする。

 

●稲葉 そうでしょうね。生まれたときから小脳という完成形をすでに受け継いでいるわけですから、やはりそれは長い歴史の中でこの形態にまで極まっているはずで、そういう意味での生命の歴史性を全部引き受けた上でこのからだはできていると思いますね。

 

●佐伯 僕はかなり適当なことを言っていますが、稲葉さんは専門家だから、きちんと実証できることしか言えない。でも、この場ではかなり思いきった発言をしてくれています。

 

●稲葉 井筒俊彦先生や河合隼雄先生の著作でも、西洋では意識と無意識が0と1みたいなデジタル表示でそこには大きな溝があるとされますが、東洋は、意識が深いか浅いかという表現になっていて、表層意識と深層意識の間を自由に行ったり来たりできるほど協会が薄い。表層意識の下に大きく広がっているのがイメージの領域です。例えば「医者」と聞けば、自分が会ったことがある医者、テレビで見た医者、漫画で見た医者など、いろんなイメージを重ねます。人間の意識の底にイメージの領域があって、私たちは、いい意味でも悪い意味でもその土台に動かされてしまう。

芸術とも関係がある話だと思うのですが、人間のからだには60兆個の細胞があり、全部の細胞がそれぞれ独立の生命体のように個としても生きていることが大事なことだと僕は思っています。細胞の1個1個が1つのユニットとして生きているのです。

これから細胞の実例をスライドでお見せしますが、例えば指先で何かものを触ったときに、5~10個の細胞がユニットになったマイスナー小体という器官がぐっとゆがむ。すると、「あっ、ゆがんだ。何かさわったらしい」ということで、触覚情報が中枢へと伝わる。

今僕が話していることを聞き取れるのは空気を介して音が振動として伝わっているからです。皮膚ももちろん振動を感知しているわけです。パチニ小体という、細胞が200個ぐらいのコイル状になった集合体がそういう振動に反応して、振動覚として感覚を受信します。

嗅細胞は鼻の奥の天井にぶらさがっていて、その上に脳みそが乗っかっています。脳みそとは骨一枚を介してつながっている鼻の天井部分に、嗅細胞という細胞がヴェルヴェットの絨毯みたいに敷き詰められていて、細胞もヒトデみたいな星形をしているのですね。細胞の形が、それぞれの働きに応じて最適なデザインへと収斂されていったとすると、その形態だけを見てもすごく面白いなと思います。

味覚を担う味蕾(みらい)細胞も、味を感じるための細胞でます。他にも、聴覚を感じる有毛細胞があり、視覚を感じる杆状体細胞、錐体細胞があります。これは光の明暗を感じる細胞と、電磁波の違いで光の色を感じる細胞に分かれているのです。

このように、人間の細胞というのは、1個1個生きた細胞が複数でユニットを作って、それぞれが五感を担当しているのです。

生きている細胞だけではなく、死んだ細胞も全身をコーティングしています。例えば皮膚が傷つくと血が出て、その奥はものすごく赤い。この赤いところにあるのが生きた細胞です。そうした皮下から生きた細胞が役割を終えて表面に押し出されていって、細胞の核が抜けて死んだ細胞、細胞の残骸が皮膚の表面をこうしてうろこのように覆っているのです。お風呂に入ってもなぜからだに水が浸入してこないかというと、皮膚がゴアテックス以上の性能で防水シートのように働いているからです。つまり、死んだ細胞を再利用して、それをつなぎ合わせてからだの皮膚という表面を構成している。

「人間のからだは60兆の細胞でできている」と言われると、すごく抽象的な気がしますけど、1個1個のユニットで考えると、寄り集まって必死に何かしようとしているのがすごく切実に感じられると思います。

ですから、生きる力を取り戻すとは、自分の感覚や五感を呼びさますことにも近いのではないかと僕は思っているのです。そのために、やはりイメージする力が大事ではないかと。実際に、顕微鏡で見れば先ほどお見せしたような生き物がいるわけですから、「自分が生きるためにこういう細胞たちが働いてくれているんだ」と共感をもってからだを見ることは、感覚を呼びさますために大事だと思いますし、人間のからだというのはなんとうまくできているんだろうと感動します。

この図は、人間のからだを単純に模式化したもので、自然の中からからだが生まれてきた。心は体の別の側面である。体の一部である頭は、特に人間だけは大脳新皮質という特殊部位がどんどん肥大化していって、そのことで私たちの大脳の活動が生まれています。抽象化する能力、イメージする能力、バーチャルリアリティをつくる能力は、人間の大脳新皮質がどんどん発達したおかげでできた副産物のようなものだとも言えるのです。別の言い方をすると、私たちは脳がイメージした空間をバーチャルに作り出せてしまったことが、いろいろな誤解や悩みを生み出した原因にもなっていると僕は思っています。心やからだが何を感じているかという直接的でリアルなものよりも、自分の脳が作り出したある種のバーチャルリアリティ空間を信じ過ぎて、それは主に外部の情報から構成されていると思うのですが、そうなると脳しか使いません。そうすると、体という全体的な場所、本当に生命を支えているところから反逆というか反抗が起きてくるのかなと。だから、人間のからだを探求して、内側に広がるいのちの世界をちゃんと理解していくことが、生きる力を取り戻すきっかけになるのかなと僕は考えています。

 

●佐伯 脳の中で作り出すイメージと、実際のからだの声にギャップがあるということですが、そのギャップが生まれた背景は何ですか。また、そのギャップを埋めていく方法はあるのですか。

 

●稲葉 やはり情報化社会の影響が大きいと思っています。つまり外部に情報化されたものがどんどん増えていくと、自分の中の内部の身体的な生命情報がいっぱいあるのに、外の情報ばかりに振り回されていく。そのことが、自分の内側と外側が滑らかにつながっていかない大きな原因ではないかと。僕はこれだけの情報化社会の中で「情報」という存在とどう付き合っていくかが大きな鍵になっていると思います。

 

●佐伯 それはやはりこの時代の特徴だということですね。

 

●稲葉 そうですね。外の情報、人工的な情報がすごく多くなったということですね。人工的な情報というのは、人間が意味を与えて作った人工的な情報ですが、自然は基本的に無意味な世界です。意味を超えた世界です。そこに石ころが転がっていることに、特別な意味はないわけです。でも、人間がつくる人工空間では、机も、パソコンも、必ず意味や意図があって作られている。だから、人が意図して作ったもの、人工的な意味があるものばかりの中で暮らしていると、意図や意味がべったりとまとわりついて、そこから逃れられなくなる。自然はもっと無意味なもの、意味を超えた世界で満ち溢れているにも関わらず。この前の相模原の事件でも、「こんな人たちに生きている意味はない」と言って人を殺す人が出てきました。意味がある情報ばかりが周囲にあふれていくと、意味があるものしか存在理由がないと誤解していって、そういう発想がそもそも起きてくる土壌に現代がなっているのかなと思います。

 

●佐伯 今の時代はよく情報過多と言われますが、例えば僕らが知らない野山を歩いたときに、これは食べられるものだとか、これは薬草になるとか、そういう情報ってあるじゃないですか。中世でもそういう暮らしの情報は膨大にあったはずです。だから、情報の総量というのは、実はそんなに変わらない。ただ情報の質が変わってきたのでは。

 

●稲葉 そうですね。そういう意味でも人工的な情報が割合として増えたのだと思います。自然にある生の情報よりも人間がなんらかの意図や意味をもってつくった人工的な情報が相対的に多くなっている。そうした人工的な情報を受け入れられない人たちにとっては、この社会自体がすごく生きづらくなっている原因になっているのではないかと。

 

●佐伯 情報をキャッチする能力が一定だとすると、人間がなんらかの意図によってつくりだしている人工的な情報が多いと、自然からキャッチする情報が入るスペースが頭の中で少なくなっていくということですね。

 

●稲葉 自然にある生の情報を受け止める余裕がなくなるのです。

 

●佐伯 人工的な情報の弊害って、何ですか。

 

●稲葉 やはりすべてのことに意味があると思ってしまうことじゃないかなと思います。特に人間にとって有益で合理的である意味です。実際、人工的な空間には意味があるものしか置いてはいけないのが現代ですから。例えばこの室内に巨大な石が置いてあったら、意味がないから邪魔だと捨てられてしまいますよね。でも、自然は、むしろ無意味なもの、意味を超えたものしかないです。石や砂や虫の配置、そこには人工的な意味はなく、そういう部分を超えたところで自然は営まれている。そうした意味を超えた自然の世界に触れることで人間はバランスを取っているように思います。野山に行きたい、自然に触れたい、アートを見たいというのは、ある意味で生命のバランスの働きで、たぶん人工的な意味の世界からもっと自由になりたい、と、みんなが求めているのではないかと思います。

 

●佐伯 そうすると、人工的な情報を定義するならば、人間によって意味づけられている情報ということですね。

 

●稲葉 そうですね。人工的につくられた情報と。

 

●佐伯 人間がこれは「意味がある」「意味がない」と線引きをしている情報によって逆に蝕まれている。でも、人間は意味あるもので固めることが豊かさにつながると思って情報を取捨選択し、意味づけていくわけですよね。例えば出世するためにはこの情報は有益である、良い学校に入るためにはこの情報が有益であると。その意味づけは、自分の暮らしや社会的地位を向上させるうえで意味があるということですね。

 

●稲葉 まあ、そうですね。意味ある世界の中で縛られていくことが無限にループされていく。無意味に1日を過ごす、無意味に外を散歩する、というシンプルなことができなくなっていく。人生を無意味に送ると考えると、耐えられない。

 

●佐伯 意味づけとは、言葉を換えるなら、役立つ情報とそうでない情報を性急に決めることだと思うのですが、そこからできるだけ自由になるためには何が必要ですか。

 

●稲葉 やはり人工的な意味を離れたものに触れることだと思います。すごく簡単に言ってしまうと、自然に触れることでしょうね。本来アートにもそういう役割があるのではないかと思うのです。絵を見せられたときに、これはこういう意味で、ああいう意味で、といったら、それはアートというより広告ではないかと思います。意味から自由になるために芸術やアートというのが生まれたのだろうと僕は思います。

 

●佐伯 稲葉さんは医療の現場でお忙しいのに、能の稽古を実践して、公演があれば欠かさず見に行かれていますが、意味という観点から見ると、能はどうなのですか。

 

●稲葉 能の意味は、わかるようでわからないですね。ドナルド・キーンさんが講談社学術文庫の『能・歌舞伎・狂言』という本の中で、世阿弥が作った筋書きはすごく意味があってとても素晴らしいと書かれていて、やはり西洋の人は意味を求めるのだなとも思いました。確かに世阿弥の脚本はすばらしいのです。ただ、実際の能の世界を体験すると、能の筋書きの意味を頭で追っているというよりも、五七のリズムで謡われる流れの気持ちよさとか独特の発声が持つ響きの気持ちよさなど、もっと音楽的な響きをこそ味わっているように思うので、能を、あまり脳みそを使って意味を求めるというよりも、音楽を体験するようなものとしても捉えてほしいのですね。意味もあるのかもしれませんが、自然と同じように意味を超えた世界で、本当に不可解で謎が多い、意味がよく分からない。だけど、何か引っ掛かる、何か気になるものがそこにはある。やはりそういう不思議や謎が中心に埋め込まれている非合理的なことにこそ、ものすごく大きな可能性があるのじゃないかと思っているのです。

 

●佐伯 能についてお聞きしたのは訳があって、ひょっとしたら深い意味みたいなものが奥の奥にあるかもしれないけれど、それは何なのかよくわからない。そういうものですら、すぐに意味がわからないと切り捨ててしまうことが問題かもしれないなと思ったのです。能のように、現代人にとって不可思議なものでも、今まで続いてきているものには何か大切なものがある。それが何かを知りたいというのも人間の本能としてある。しかし、性急に意味があるかないか決めつけてしまうと、その大切なものに到達できない。

 

●稲葉 そうですね。意味と無意味とを共存させる力が必要ですね。僕の個人的な体験ですが、3.11の震災の2日後から福島に医療ボランティアとして関わっています。現地で亡くなった方を大勢見たときに、現代医療は生きるためのことはあらゆることをやっているけど、死んだ後のことや死者のことは何もしてこなかったと実感したのです。全く無力だなと感じたのですね。医療の歴史を探しても、ターミナルケアはキューブラー・ロスの話が一部出てきても、死者のことや鎮魂のようなものは全然出てこない。ところが、お能を見ると、鎮魂の歴史そのものなんですよね。平家物語の琵琶法師の語りもそうですが、やはり伝統芸能の中に死や死者に対する鎮魂というものが大きな要素として含まれていて、そこにこそ現代医療が見落としている大切なものがあると感じました。その可能性を考えたとき、お能をありがたがって鑑賞するよりも、自分で中に飛び込んで実際に体感したいと思ったのです。

 

●佐伯 能という伝統芸能は今、非常に危機的な状況にあるわけですが、その大きな原因の1つは、能の中に秘められている、簡単には言い切れない価値が伝えられていない、共有されていないことだと思うのです。

能の舞台ってすごくシンプルですよね。現代的な舞台では月を感じさせるために、CGを使ったりしてリアルな月をつくり、観た人がそのリアルさを「すばらしい」と感じるわけでしょう。でも、能の場合は、リアルな月などなくても、面の角度とそこに浮かび上がる表情を観て、観客が「あ、美しい月を愛でている」ということを想像して月の存在を共有できていたわけです。そこがうまく伝えられていないのではないかなと思うのですが。

 

●稲葉 観る人がイメージを付与させて完成するのが、能の奥深いところです。イメージが外から提供されるのではなく、自分でイメージを立ち上げて参加していかないとわけがわからない。例えば、能舞台で橋懸りというのがあります。観る人は、橋懸りの下に三途の川をイメージする必要があるんですね。三途の川の向こう側はあの世の世界ですが、橋掛かりでつながった能舞台はあの世にもこの世にもせり出している。つまり、舞台があの世でもありこの世でもある、そうした極限の空間で行われているというイメージを持って観る。人間はいずれ必ずあの世に行くわけですから、ほんとうは全員に関係があることだと思うんですね。そういうイメージを持って能の世界を見ることが重要なことで、能楽師の人が言わなくても、自分を含めて能楽師を支える周囲の人間がそうしたことを共有していければと思っています。

 

●佐伯 僕が言いたいのは、人間には能面からさまざまなイメージを起ち上げる力がある。それと同じで、医療の現場でも患者さんはお医者さんの顔の表情や振る舞い、病院内の雰囲気から当然いろいろな信号を受け取っているわけじゃないですか。そのことをおろそかにして、本当の治療ができるのかなと。

 

●稲葉 能楽堂の能舞台というのはある抽象的な空間の中で、すごくイメージをかき立てるというか、刺激する場だと思うのです。それだけ人間は場の力にすごく影響を受けるので、場の設定がその人のイメージ能力を奪うことにもなるし、それを高めたり刺激したりすることにもなると僕は思っています。生命力についても同様で、人の生命力を奪うような場もあれば、生命力を高めるような場もあると思っています。だから、病院という場に対しても、本当はこうすればいいのに、という提案が山のようにあります。

 

●佐伯 例えばどんな提案ですか。

 

●稲葉 例えば入院患者さんが着る服ですが、あの囚人みたいな管理型の服を着て元気になれるとは思えません。病院食も、割れても大丈夫みたいなプラスチック製の食器に入れられると、ああした器でご飯を食べて本当に元気になるのかなと。壁面ももうちょっと芸術の力で何かできるのではないかと。病院という空間の作り方ももっと工夫できると思います。目が不自由な人、耳が不自由な人、身体が不自由な人にも優しく、それでいてイマジネーションを刺激するような空間づくりなど。現状は、ただ機能性を重視して、できるだけ大量の患者数をできるだけ効率よくこなしていくことに大きなお金を使っている場づくりになっていると僕は思います。

 

●佐伯 介護現場も同じですね。僕が長く仕事をさせていただいている介護会社の社長が素晴らしい人で、その社長の考えに共感して、僕はその会社案内やいろんなツールを作ってきたのです。何が素晴らしいかというと、例えばその会社が全国に展開しているデイサービスや老人ホームなどの介護施設では、絶対にプラスチックの食器は使わず、すべて陶器製です。やはり手に持ったときの触感や質感が重要だと言うわけです。そして塩は、伊豆大島で昔ながらの方法でつくる「海の精」しか使わない。天然塩といっても、最後は煮沸して水分を飛ばしたりするのが多いのですが、大島のその塩は、最後の最後まで塩田で天干しでつくられるのです。その分値段も高いのですが、その会社では「海の精」しか使わない。人間のからだを構成しているミネラルの数は50種類以上あって、海水の中に含まれているミネラルの数も当然50種類以上あるわけです。ナトリウムやマグネシウムのほかに、微量のミネラルが海水には含まれている。それなのに、工業塩は、海水の中の0.1%や1%の微量なミネラルを全部排除しちゃうわけです。

近代では「塩はからだに悪い」とよく言われますが、昔から「敵に塩を送る」という言葉もあるとおり、人類にとって塩が悪いはずがない。かつて、トゥアレグ族が中央アフリカのマリと地中海をラクダの隊商隊でサハラ砂漠を横切って交易していた時は、塩は黄金と同じ価値で取り引きされていたのです。それなのに、現在、微量のミネラルを外した工場塩のことを塩だと言っていて、そういうものを摂取し続ければ、当然、からだの中で、工業塩に多く含まれるナトリウムと微量なミネラルのバランスが崩れますね。そのことが人間の体液にも悪影響を及ぼすのではないでしょうか。

 だから、その会社の介護施設では、人間の体液と等しいミネラル成分を含んだ塩、昔ながらの方法で作られた塩を使用するのです。その話を聞いて、僕も家では大島の塩を使うようになりました。工業塩の5倍くらいの価格ですが、それでも1000円ちょっとで、3~4カ月はもつわけですから、それほど高価とは思えない。

 この介護会社のように、介護現場においても、目に見えにくい領域が大切だという信念を持ってやっている人も多くいます。医療現場はどうですか。

 

●稲葉 糖尿病や心臓病では食事指導が行われますが、食ということをもっと医療者も勉強する必要がありますよね。教科書に載っていることを講義しても実際はあまり効果はないです。教科書に書いてあるから、では説得力がないですよね。今の塩の話も、医療者がどこまで本質を理解してもらえるのか疑問です。一般的に流通している食塩は化学記号のNaClまで不純物を精製しているので、そうした意図的な操作こそがからだに悪いのではないかと思っています。自分も自然塩しか使ってません。そもそも、自分が食べたくないなと思うものを、患者さんや具合が悪い人に食べさせることに葛藤を感じますね。塩ひとつとっても、自然塩を患者さんに提供したほうがいいのではと思います。でも、臨床栄養学という学問の中では、塩がからだに悪いと言われたら、塩はすべて同じ塩になってしまって、そこに質の違いが出てこないんです。でも、本当にそうなのだろうかと、佐伯さんがおっしゃったみたいに視野を広げて、歴史的な視点からも医療者は食のことをもっと学ばないといけないと思いますね。塩の話が、塩という情報だけになると、そこに質の違いが出てこないんですよね。

 

●佐伯 この話を稲葉さんに伝えたかったのは、先ほどの情報の話で、意味がない情報を排除しているというときの「意味」とは何かを問いたいと思ったのです。1%とか0.1%しか含まれていない無数のミネラルが何の役に立つのかは実証できていない。だから「意味がない」と削除してしまう。からだのなかでこんな機能を果たして役に立っていると科学的に実証できて説明がしやすいものはありがたがって摂取するけれど、その効果がよくわからないものは、まあ要らないんじゃないかと外す。本当は自然界のものにまったく無意味なものはないはずなのに、実証できていないとか、理由が解明されていないものは「無意味」として排除する傾向があるのではないかなという気がするのですね。特に塩は、古代からとても大事にされてきたのに、なぜ現代では嫌われ者になってしまったのかと。

 さきほど、人間は自分にとって意味あるものばかりを選択しているけど、自然界には、無意味なものが溢れているという話がありましたが、自然界に無意味なものが溢れているのではなく、人間がその意味を理解できていなものがたくさんあるというだけのことで、現代人は、自分が理解できていないものを敬遠したり排除する特徴があるわけですね。本当は、自分の理解を超えたところに大切なものがあるのに。

 

●稲葉 そうですね。無意味というものも、わたしたちがその深い意味を発見していないということでもありますね。無意味と切り捨てるのではなく、もっと深い意味を発見する必要があるのでしょう。心臓の領域では、「塩をとるな」というのがもう金科玉条になっています。僕は「質の悪い塩を多量に取らないでください」と言います。「塩は生命にとって必要だから質のいい塩分をとってください」という言い方をしますが、それはやはり亜流でしょうね。難しいことは言わずに、基本的に「塩はだめだ」と言っておけばいいんだというのが本流なのです。1日に3グラム以下というのは分かるんですが、やはり実情にあっていない、病院という管理された空間でしかできないと思います。

 

●佐伯 医療現場に革命を起こさないといけないですよ。

 

●稲葉 今は偏った栄養学だけで話がまとまってしまっているのです。食は生きることそのものですから、生命の世界そのもので、本当に奥が深いと思います。もちろん自分の考えが間違っているかもしれませんし、だからこそそれぞれの人が意見を交わしながらひとりひとりの体質にあわせて納得していく作業が大事なのに、医療現場で頭ごなしにやるのはすごく納得がいかないなと思いますね。手がかかることこそ、大事ですし、ひとりひとり、全員が違うわけですから。自分も食のこと、命のこと、体のこと、常に勉強したいと思っていますし、患者さんからいろいろ聞いて学ぶことも多いのです。体や命を与えられているという意味では医師や患者ということではなく、みんな立場は同じなわけですから。