レジリエンスダイアローグ〜この惑星に生きる作法〜

第3回 2018年4月1日(日)開催

 

近代文明の本質と、その行方

私たちは何を守り、何を捨てるべきか。

ゲスト:佐伯啓思(社会思想家)

進行: 佐伯剛(風の旅人 編集長)

●佐伯啓思

今ブータンの幸福観の話がありましたが、私は、日本人の幸福やGDP、経済成長とは一体何なのかお話ししたいと思います。

私は京都大学の「こころの未来研究センター」の特任教授をしています。おととい京都新聞で、内田由紀子さんという幸福感の国際比較を研究している方と対談しました。彼女は、人間の心理は普遍的なものではなくて、文化構造の中から出てくるのではないかという仮説をもって、幸福感の国際比較をされています。

例えば「あなたは10点満点であなたの幸せは何点ですか」とアンケートをとると、アメリカは大体7~8点くらいで日本人は5~6点です。何点を取れば満足できますかと聞くと、アメリカ人は9~10点ですが、日本人は7~8点なんですね。

アメリカ人は、完璧を求め、上を目指す意識が強い。上を目指すところに社会の進歩があり、それにともなって幸福度も増えていかないといけないという観念が非常に強くあります。

 それに対して日本人は、この世に完璧なものなどない、逆に、あまり幸福になりすぎたら後からとんでもないことが起きるんじゃないかという考え方がとても強いです。また、自分だけが幸福になってもおかしい。皆が幸福でなければという考えがあります。それから、我々は運という観念が好きで、人間が持っている運の総量はあまり変わりなくて、今良すぎると、後で悪いことが起こるのではないかなどと考えて、今、この瞬間に全面的に幸福を手にしようと考えないのです。

西洋人はどちらかといえば、運というのは偶然が外から降りかかってくるものであり、人間は運に対して戦う、あるいは手なづけて、自分の幸せを勝ち取らなければならないという考えが強いでしょう。イタリア・ルネサンス期のマキャベリの『君主論』では、運と人間はどのように戦うか、運をしりぞけ、コントロールしてしまう、そこに人間の力量が存在するという内容のことが書かれています。

日本の場合、例えば巨大な災害があった時に、我々は心のなかで半分諦めてしまいます。東北の大震災も非常に悲惨な災害ですが、今度は西日本に起こるかもしれない、自然災害は、備えは必要だが、完全に防げるものではないと諦めに似た感覚もどこかにあるのです。

それに対して、アメリカ人のルース駐日大使は、東北を訪れた時に、「こんなものに負けてはならない。克服しなければならない」と言いましたね。

日本人は自然と人間がある意味で一体で、自然にも畏怖の念を持ちます。また、不幸になるならみんなで一緒に不幸になろう。幸福は一人ではなれない。家族や知人、友人も幸福でないと困る。全体の中の一つのつながりの中で自分も幸福でありたい、という傾向が強いですね。一方で西洋の方は個人主義で、自分一人でも幸福になりたい。そこに競争が起き、競争社会になる。競争社会を調整する法律が必要になり、法のもとで幸福追求競争をすれば社会が豊かになり全体が幸福になる。

日本人は自分だけ幸福になると困るので相手にも手を差し伸べる。困っている人がいたらその人の面倒を見よう、と全体を底上げしようとなる。だから、個人同士の激しい競争には向いていないのです。法律によって競争を調整するという考え方よりも、お互いに忖度し合いながら調整していく考え方が日本では強い。

所得が増えた、賃金が上がった、会社のポストが上がったというのは、数字として表しやすく、わかりやすいので、それを幸福の指標とした、能力主義、成果主義という発想も生まれます。しかし、日本人の幸福観は、本来、経済上の数値で示すことが難しいのです。

そういうことを踏まえ、GDPについて説明すると、現代社会の人間は、経済成長しなければ幸福にならないと信じこみ、経済成長至上主義に取り込まれてしまっています。

しかし、GDPというのは、例えば、コップに水が入っていて、そこにさらに3センチだけ水を足したら、この3センチが今年のGDPです。GDPが成長するというのは、今年の3センチより来年は4センチ、再来年は5センチ増えるということです。

経済成長がゼロというのは、今年は3センチ増えたが、来年も3センチ増え、次も3センチ増えるということです。もちろん、過去のストックで減っていくものもあります。しかし、家電などは、使用期間は伸びているわけで、新たに買い足す分は少なくても何の支障もありません。

現実に90年代からGDPは1%も成長していませんが、この20年間で家の中の物が少なくなって不便になったなどということにはなっていない。むしろ増え過ぎて不便になっているぐらいです。

 GDPの計算は戦後のアメリカの経済学者が作った観念・尺度です。アメリカの経済の基本的な考え方は、資本や労働を組み合わせて物を作り、それが消費者の手に渡り、消費者の満足を増加させ、 さらにはその満足を極大化すること。そのために物の生産量を最大化しようとします。その生産量を数値的に測ったものがGDPなのです。こうした考えにおいては、農産物などの自給自足はいくら規模が大きくてもGDPの成長に入りません。農家の人にもらったりしても、また現在、急速に進んでいる自転車や車の貸し借りはGDPに入らないのです。GDPは低いかもしれないけれども生活の質を保つことは十分に可能なのですね。

 

●佐伯剛

わざわざ新しい物を買い足してGDPを増大させなくても、生活は十分に成り立つ。幸福の実感とGDPの成長は別という佐伯先生のお話はよくわかりますが、日本国の豊かさや日本人の幸福と、経済成長の問題をつなげる意見の背景には、税収の問題があると思います。

企業が成長し、利益を多く生まないと法人税が増えない。給与があがらないと所得税が増えない。国民が多くの物を買わなければ消費税が増えない。税収が不十分だと、社会福祉を支えきれなくなる。

そして、消費が増えて企業の生産量が上がっていかなければ、雇用の維持が難しくなる。

税収や雇用の問題を踏まえても、GDPが成長しなくてもかまわないと言えるかどうかが、ポイントですね。


 

●佐伯啓思

 ご指摘の部分は、とても重要な問題です。経済の考え方を変えるしかないと私は思います。具体的には、ある程度大きな政府にしないといけない。経済成長はゼロだけれど、税金は高いという状況ですね。ただ、その税金は福祉や医療、介護に回り、自分もその恩恵を受ける。我々一人ひとりは、そうした全体のコミュニティの中に所属していると考えることです。

 それは、アメリカの個人主義とは違います。アメリカのシステムは、自分が稼いだ分は自分が使います。その代わり、老後の暮らしも年金に頼るのではなく自分のお金でやる。医療費も100%を払わないといけない。日本は国民皆保険で一部の負担で済むわけですが、個人主義は、自分のことは自分で全て責任を持たなければなりません。


 

●佐伯剛

 国民の暮らしが健やかになるために、経済成長はゼロだけれど国民の税金は高いという状態と、経済成長によって企業の収益が伸びて法人税が増えて雇用も安定する状態では、どちらがいいですかと国民に問うと、仕事もないのに税金が高いというのは勘弁してほしい、だから経済成長を目指しましょうということになりがちですね。相変わらずアベノミクスが強い支持を受けている理由として、この単純な論法による説得力があると思うのですが、この点はいかがですか?

 

●佐伯啓思

昔、車は2年に一回買い換えるという価値観が当たり前でした。そうすればGDPが上がります。今は買い替えサイクルが長くなるわけですからGDPは下がります。現在、共有する方が便利という価値観が潮流の中でGDPを上げるというのは20年前の努力とは比較にならないほど難しいです。そういうことは、もはや無理だという前提に立たないと、どっちを選びますかということになります。まだまだGDPが上がる余地があると思わされているわけです。

 今、政府や経済学者は労働時間が減っても労働生産性が上がり、経済成長は可能であると主張しますが、これはとんでもない大間違いだと私は思っています。労働生産性とは何かと言うと、GDPを労働人口と労働時間を空け合わせたもので割ったものです。労働人口や労働時間を減らすと分母が減り、労働生産性が上がる。現在、日本政府は労働時間を減らそうとしています。そうすると見かけ上の生産性が上がります。しかし、GDPは増えていません。

 もう一つは技術革新、つまりAIとロボット、IoT、物とインターネットを結びつけるイノベーションで生産性を上げるのだと彼らは主張します。肉体労働をロボットに、頭脳労働をAIに代替する。すると労働者は失業するか、労働時間が極端に短くなる。生産性の高い仕事はAIに置き換えられますから、生産性の低い仕事ばかりが人の仕事になる。こういう仕事の賃金は低く抑えらますから、総所得が減るでしょう。少なくとも増えるとは考えられない。すると消費は減り、物が売れない。供給は増えても需要の方が増えないから、生産性を高めたつもりでもGDPは増えない。そう予測するのが自然であり、イノベーションで労働生産性が高まりGDPが増えますという説明はデタラメです。無理にやめろと言いたいのではなくて、難しい。うまくいって1%、今の現状維持が精一杯と考えた方がよいでしょう。

 

●佐伯剛

これまでの話のなかで、会場のみなさんから質問はありますか?

 

●参加者

政府は、GDPの中身を変えようと言っていますが、そのことと先生の話はどうつながりますか?

 

●佐伯啓思

 アベノミクスでは、国内は需要の伸びが期待できないから訪日外国人を増やして彼らに物を買ってもらうこと。そして、円安による輸出産業の強化が掲げられています。

 訪日外国人は、この3年間で増えました。東京五輪までは増え続けるでしょうが、今後、増え方はなだらかになるでしょう。輸出もそうです。どこの国も、国内の需要が頭打ちで、海外市場を狙っています。そういう状況で、日本だけが勝てると思うのはあまりにも楽観的すぎます。

 

●佐伯剛

 日本には1000兆円という巨額の借金があります。国民生活にさほど影響が出ない程度いインフレになると、お金の価値が下がりますから、借金額も、目減りします。日本がこれだけ借金額を増やしてきたのは、経済成長によって賃金を上げて需要を増やすことで、インフレ傾向を作り出せば、実質上の借金額を下げることができるという目論見があったわけですね。

 そして、超高齢化による社会福祉の支出の増大により、さらに借金額が増えることが予測できる。 この状況で、経済成長というシナリオ以外に、いったいどのようにして借金を減らすことができるのか。


 

国家の舵取りをする立場になれば、当然、考えなければならないことですが、この点についてはいかがでしょうか?

 

佐伯啓思

政治家も官僚も、この問題に対する正解を分かっていないと思います。僕もよくわかりません。確かに国の借金が大問題と言われていますが、その借金の大半は日本国民から借りているものです。政府の負債は国民の資産になっているのです。政府が借金を返済できないと、いったい誰が破綻するのか。日本の国家破産というのは、常識を超えた問題です。まずありえません。

 

●佐伯剛

 誰かからお金を借りるのではなく、日銀が何も無いところからお金を発行して、国債を買い支えていますが、このことによって計上される国の借金は、いったい何なのですか?

 

●佐伯啓思

 国民に関係のないところで、日銀はいくらでもカネを刷ることができるのです。その極限で何が生じるのかは普通の経済理論ではありえない話で、日銀が破綻しなければ問題のない。そして、日銀の破たんはまず政治的に回避されるとみていいでしょう。

 

●佐伯剛

 税収によって返済できる規模の借金ではない。だから、日銀がお金を発行し、そのお金で福祉や公共事業を行っている状況ですね。そういう方法で成り立つのであれば、極論を言えば税金を集める必要はないですよね。

 

●佐伯啓思

 日銀の役割は物価安定です。今デフレ経済だから日銀がどんどんお金を発行しています。本来、巨額のお金を発行し、お金が市中に回りすぎると、インフレになるんです。しかし今、なっていない。その理由の一つが、日銀の発行したお金が金融市場に回ってしまっていること。市中には回ってきていないからです。今何が起こっているのか誰も正確に理解できていないと思います。今行っている金融政策が、将来、何を引き起こすのか、ほとんど議論されていないし誰も分からないと思います。もしわかれば、特段のリスクはない、ということになりますね。

 

●佐伯剛

 実質経済から10倍以上のお金が金融市場に流れて株価が上がっている。そのことによって、10億円の資産を持っている人が、資産を倍にしている。そんなに資産を持っていても個人では使い切れない。一方、年収300万円とか500万円の人は、いくら日銀がお金を発行しても、年収が増えるわけでもないから、需要も高まらない。超リッチな人の間だけでお金がまわっているということですね。アートの価格が、ごく限られた人のあいだの取引で桁外れに上がっていく状況と重なりますね。いくらアートの価格が上がっても、国民の豊かさとはまったく関係がない。

 

●佐伯啓思

 アメリカの場合は極端です。トップの0.1%の人間の資産が、アメリカの総資産の半分もっている。恐るべき社会です。日本はまだそこまではいっていませんが、こんなことが起きていること自体が、資本主義が続かないという証拠なんです。資本主義は、企業が借金をし、資金を使って事業を行い、収益を得て将来のマーケットを拡張する。そして賃金が上がることで、労働者は、将来に製品を買うわけです。この仕組みの中で、資本主義は経済成長し続けなければいけない。

 ところが、日本ではゼロ金利が20年続いています。企業が借金をしてまで資金を必要としていない。資金需要がないのです。企業がどうしてお金を借りないかと言うと、ゼロ金利でも、確実に10年後に新たなマーケットができて利益が得られるという見通しが立たないのです。だから企業は大きな設備投資ができない。企業は収益をあげてもそれを内部留保で積み上げているだけです。だから日銀がお金を発行しても、お金が設備投資にまわらず、そのため、金融マーケットだけが現実離れをして拡大していくのです。

 日本だけではなくて世界中の先進国がそういう状態になっていますから、新興国に出て行って新興国のマーケットを取ろうとする。アメリカのトランプ大統領のように海外から入るものをシャットアウトしようとする。そういうことをやらないと自国内のマーケットを安定させるのは無理だということなんですね。ここから出てくる結論はほとんど唯一で、おそらく国家間の保護政策の対立が激しくなるということです。アメリカと中国、日本、EU、ロシアとEU。EU内の国家間の対立も激しい。アジアもそうでしょう。世知辛い時代になってしまって、緩やかなところで適当に共存するという話ではなくなってきてしまっている。

 それを生み出したものが何かと言うと80年代から90年代にアメリカが主導したグローバリズムです。どこの国が新しいマーケットを取るか、新しい国に進出するか、自分たちの雇用をどのように守るのか。今、そういう局面の瀬戸際の攻防が起こっていますね。

 

●参加者

日本人は、こういう状況の中で、今までとは異なる生活システム、ライフスタイルを描くことはできるのでしょうか?


 

●佐伯剛

ワタナベさんの実践をお話いただけますか?

 

●ワタナベ

僕は滋賀県の米原に住んでいます。子供を二人授かっています。僕は企業に属していなくて、収入は複数の手段で得ていて、日々生活が回ればいいなと思いながら、日々の暮らしを営んでいます。

 

●佐伯剛

もしよろしければ、収入は、何と何を足し合わせているのか、お話いただけますか。

 

●ワタナベ

簡易な宿泊業とか米作り。米は売るためでなく、家族が食べる程度のもので、欲しい人にあげたりもしています。それと、妻がデザインをしていて、ホームページを作ったり名刺を作っています。整体の仕事も始めました。仲間と市場を出店したり、家を解放して集まる場所にしてイベントをしたり、家の玄関先では、自分たちで選択した商品を販売しています。

 

●佐伯剛

どこかの特定の組織に自分の全てを預ける人生は、かつては安定とされましたが、現在は、その組織次第ということで、リスクが大きくなっています。なので、ワタナベさんは、一時的な収入の大きさを求めているのではなくて、リスクを分散させているわけですね。

ワタナベさんが心がけておられるように、食べていければいいけれど、今の社会では現金収入も必要だから、仕事を足し合わせることで対応する。そして、身体が資本だから、身体を動かすことや食べるものに気をつかって健康維持をする。国家のシステムに依存するのではなく、将来何が起こるかわからないから、国家のシステムが揺らいだ時に、パニックにならないよう、どんな形でも何かしらの方法で生きていける方法を、一つひとつは小さくても複数備えておくことは、考えておくべき大事なポイントになるのではないかという気がします。現在の年間所得や社会ステイタスだけを見て、幸福度、満足度、そして将来の安定度を計るのではなく。

 

●参加者

世界で実験が始まっているベーシックインカムに関してはどうでしょうか? 

 

●佐伯啓思

ベーシックインカムまでせずとも今の税体系の元でも所得保障は可能だと思います。議論の価値はありますが、完全に一律でやるのはやりすぎのような気がします。収入を保証されてしまうと人は働かなくなるもので、そこまで行くとまずい。

 それから、昔はミクロを足し合わせればマクロになったのです。つまり、私が就職して頑張って出世すれば給料が上がり、家族も企業もよくなった、そして日本が良くなったんです。

 あまり強引な経済政策を打ち出して、マクロの発想で物事を動かそうとするとミクロに歪みが出てくる可能性が非常に高い。あまり余計なことをしないで、マクロはゆったりと構えてミクロの可能性の余地を与えてもらいたいと思います。

 僕が大学院の頃にベストセラーになったシューマッハの「スモールイズビューティフル」という本があります。1973年に出版された本で、シューマッハはユダヤ人でナチスから逃れてイギリスに来て亡命した人です。彼は亡命後仕事が無く、農場で毎日牛の数を数えて報告していた。ある時数えてみたら1頭足りない。探してみたら森で死んでいた。それを見て自分は全く間違ったことをやっていたと気がついた。自分には牛の数しか興味がなかったけど、牛の一頭一頭の健康状態をケアしていればあの牛を死なせることはなかった。その時に非常に後悔したと言っています。

 その経験から彼は、物の数を増やし人間の自由を拡大して活動範囲を大きくすることに対して批判的になります。全てのものには適正規模がある。人間らしく暮らすには適正規模があって、それを守ることが大事だと。スモールイズビューティフル。人間が自分の仕事の意味がわかる中で、他の人と繋がりながら仕事をすべきであるということ。それができるのは都市ではなく地方である。地方がこれから大事になると、彼は70年代前半に書いているのですね。その当時、僕は、当たり前なことを書いているなあとしか思わなかったのですが、数年前に読み返してみて感銘を受けました。70年代の初めにそんな議論が可能で、世界中で大ベストセラーになったのです。今、多くの人は、グローバル競争が当たり前という感覚になり、取り込まれて、流されてしまっている。

 

●佐伯剛

そもそもベーシックインカムの問題は、人口のことも考慮に入れなければいけないですね。

世界に先駆けてフィンランドが実験を始めていますが、フィンランドの人口は550万人で、日本は、その20倍以上。国民一人ひとりに、毎月、7万円支給するだけでも、フィンランドの場合は、年間5兆円ほどですが、日本では100兆円も必要になります。国家の歳入が50兆円ほどしかないので、いくら増税しても、ベーシックインカムのためのお金を用意することは不可能ですね。

 

やはり、幸福のために、最低限のお金は必要ですが、お金のことに意識が行きすぎると、必ず、どこかに歪みが生じる。

日本は、結(ゆい)をはじめ、様々な共同体の工夫を通して支え合うという伝統がありました。そのように日本人が歴史の中で実践し蓄積してきた知恵や工夫を、現代の中で活かすためにはどうすればいいか。そうした環境が、今の日本の社会、文化風土に残っているのかという問題がありますが、いかがですか?

 

●佐伯啓思

僕は、物を増やして規模を大きくするというのは、基本的にはキリスト教など一神教をベースとした世界観だと思っています。一神教はこの世のものは神が作ったもので、人間にとって役に立つものである。そういう考え方がベースにあって、物が人にとって役に立つということは非常に重要なことなのです。

近代社会は、神を排除していきましたが、世界観は、根本のところで変わっていません。

キリスト教の神は、すべてのものを作りましたが、人間を万物のなかで1ランク上に作った。だから人間は自然を支配することができる。人間の理性は万能で、自然を作り変えて人間が都合の良いように変えて利用することができる。そうした考えが歯止めが効かなくなって暴走する。

何が幸福かという問題は、限定してしまうのではなく、かなり緩やかな形で、だいたいこういう形でと仮説でとらえた方がいいですね。絶対的にこれが正しいという幸福感というのはあり得ないし、時代によって変わります。今この状況ではましだろうということしか言えないわけです。だからといって、最低限のことだけを決めて、あとは何でも勝手に好きなことやってくださいというわけにもいかない。こういう社会にしておく方がいいだろう、この社会よりもこちらの方がましだろうというような議論は続けておいた方がいいと思います。しかもそれはただ経済的なこlとだけではなく、道徳的な観点も含めたものでしょう。


 

●佐伯剛

「足るを知る」という、日本人が伝統的に育んできた幸福観があります。しかし、それを支えてきた自然風土や文化風土が急速に失われつつある今、その幸福観を保つことは可能なのか。先ほど話に出てきた無や循環の思想も、自分勝手に頭の中で作り上げたものではなく、目の前で展開する自然の摂理を見続けることで育まれたものでした。そうした自然を、かつての日本人が感じていたほど感じにくい環境の中で私たちは生きています。

 毎日のようにテレビからは新製品の宣伝広告が流れ、街を歩けば、人間の欲求を過剰に刺激し、人の目を過剰に意識させ、物を買わざるを得ないような心理に追い込む扇情的な刺激が満ち溢れています。そういう環境の中で、「足るを知る」幸福観は、リアリティがなくなってしまう。

 会場のみなさん、そのあたり、どういう風に感じていますか?

 

●参加者

 

 過疎化の進む地域で、一次産業をやった方がいいと言う人がいます。その方が地球環境にもいいでしょうし。しかし、情報化社会の中で、煩悩のある人間が、物欲その他の欲求を抑えるのは難しいです。

 また一方、トヨタ自動車では、26兆のうちの80%が海外の売り上げです。しかも、大企業のトップ層は外国人が増えており、日本の企業かどうかという線引きも難しくなっています。

 さらに、四半期で売上や利益を上げていかないといけないので、長い目で人材や商品やサービスを育てる余裕がなくなり、M&Aをするのが一番手っ取り早いという状況で、それをうまくやっている企業が賞賛される。

 自然風土だけでなく、色々な場面で、日本の固有性や歴史性が消えていき、そういう状況のなかでは、新しい情報ばかり追いかけることとなり、長い時間をかけて足元を見つめる意識も弱くなっていくような気がします。

 

●佐伯啓思

 どうすればいいか、正しい答えはないんです。戦争に負けて、どん底に突き落とされた戦後すぐはまだしも目標を立てやすかった。昨日よりも豊かになりたいと、アメリカ人の暮らしに憧れ、そこに向かって一丸となって働いていた。戦後の日本の資本主義は、70年代くらいまではうまくいっていた。私的利益を追求していれば全体が良くなった。しかし、80年代あたりからそういう状況がなくなったのです。企業がグローバル化して海外に出ていくと、企業業績は良くなるけれども、国内の雇用がなくなるんですね。先ほどおっしゃったように、トヨタは、80%の利益を海外でで稼いでいる。日本だけでなく、アメリカの企業も、世界中でそういう状況を作り出している。

 そういう状況に日本が巻き込まれていった理由は、いろいろあるでしょうが、結果的に、「足るを知る」という幸福観を忘れてしまったとは言えますね。「大きい方がよい」の罠にはまっている。

 この状況を逆転させるのは、正直に言えばほとんど不可能に近い。よっぽどのことがなければできない。残念ながらそういうふうに思っています。

 

●参加者

私は、メリハリをつけることを心がけています。何としてでも頑張るところと、ここはこれくらいでいいかと流すところ。どこでその折り合いをつけるのか。正解はないわけですね。その判断は、ある意味、制限を受けず自由であるがゆえに難しい。でも、難しいから不満とか不幸ということではなく、自分ではその状態に対して、とりあえず満足はしている。全てを解決するためだからと、強制的に、何か一つのことを強要されるのは多分よくないと思います。

 

●佐伯剛

 「国家」というのは抽象的な概念で、ずっと昔からあったわけではなく、近代化の中で作られた概念です。国家に所属し義務を果たすことで身分が保障され、権利も得られるわけです。国家というのは、そこに帰属すること、従属することで安定を保つ制度なわけです。ですから、国家が安定していれば大きな問題は生じませんが、国家の存続が不安定で危機的な状況に陥った時、またそうなりそうな時、その帰属者は、全体のために義務を果たさなければならないというムードが作られ、その強要が行われる。

 そういう可能性のある近代国家の中で、ディアスポラというのか、どこに帰属しているのか分からない状況で生きている人が増えているわけです。

 そして、エストニアのように、ブロックチェーンの仕組みの中に国民の様々な情報が登録されていて、中央集権国家が統率するのではなく、自律分散的に共有されている新しい国の形が出てきました。海外にいたとしてもブロックチェーンに登録されることで国民になれて、どこにいても仕事ができる。

 小国のエストニアは、悲劇的な歴史の教訓があり、たとえばロシアなどの大国に国土が侵略されても、国民が、ロシアの支配下に置かれない仕組みづくりを模索しているのですね。

 さきほど、「大きな政府」が必要という話がありましたが、僕は、それに対する認識が違っていて、国家の枠組み自体が崩れてきている状況の中で、中央集権的な構造によってメリットを得ている人は、それが崩れると困るわけです。だから、それを維持するために、このままだと大変なことになりますよと煽動する。安倍政権が唱える「一億総活躍国民会議」なんて、とても不気味で、危険なものを感じます。国を挙げて推進しようとしている原発輸出なんかもそうですね。

 けっきょく、現在、人々が抱え込んでいる不安を解消するために、国家に頼るという意識は、国家の方針に逆らいにくいという空気につながります。大きな政府というのは、それだけ国家の権限も大きくなるということで、私のような天邪鬼は、国家が描く理想や幸福像には従いたくないという意識が強いですが、そうすると、罰せられるのではないかという恐怖があります。

 だから私は、国家に頼らないサバイバル術を、少しずつ準備していくことの方を優先したいです。

 富士宮市に面白い事例があります。高齢化が急速に進むなか、自治体の予算が限られていて、認知症の徘徊への対策予算が組めない。そうした状況のなか、早期認知症を患い、自分の病状が悪化していく将来の不安を抱えた人が、地道に、自分の不安を訴え、認知症への理解を広めるための講演会を続けていったのです。認知症の問題は、もはや他人事ではないので、その人の話に共感する人が増え、認知症サポーター制度が、住民の中で自律的にできたのです。たしか人口10万人の町で、私がその話を知った数年前には10,000人のサポーターがいました。今ではもっと増えているかもしれません。

 サポーターといっても特別なことをするわけでありません。認知症の人が徘徊していたら声をかけて、家まで送り届けるのです。つまり、家族だけで認知症の方の行動に目を光らせ続けるのは大変ですが、街全体で見守ろうという状況を作れば、家族の負担も軽減されますし、かといって住民の負担がそれほど大きくなるわけもありません。こうした認知症対策を行政の管理でやろうとすると、莫大な予算が必要になりますし、行政が管理しているにも関わらず認知症の方の事故が起きたりすると、マスコミが大騒ぎをしますので、行政も、やたらと慎重に、会議ばかり重ねて、実践することのリスクを天秤にかけ続け、なかなか決まりません。住民主導であれば、やりながら、よりいい方法を見つけていけばいい、というスタンスで実行しやすいです。

 認知症の徘徊の問題は、歩いていたら声をかける、そういうことを徹底する。それだけです。国に頼んでも難しいので自分で自助システムを作ろうよと。

 現在は、国家の役割も変わりつつある状況であり、アメリカのように、国民の不安心理につけこんで国家が権限を強めていくのは、とても危険なものを感じます。

 不安だからといって大きな組織に簡単に頼るのではなく、小さくても柔軟でしたたかな生存戦略が必要ではないかと思います。

 

本日はありがとうございました。